月に一度、その街の子どもたちは定期検診という名目で

病院の地下に泊まらなくてはならない、

謎めいたルールを持つせかいをめぐるSF

(Boy meets World's End Girlfreind)

 

恋人が本になった。

眠り続ける彼の皮を剥ぎ、綴られた物語を読む女の幻想

('Til Death Do Us Part)

 

高知県と徳島県の間にある秘境を訪ねる伝奇

((I can't)Change the world)

 

天狗や鬼、妖怪たちが集う星霜に一度の祭りを描いた怪奇

(かむながらのみちはとわにつづく)

 

1923年冬、架空のパリから、2023年、架空の新宿まで。

時空を旅するシュルレアリストの冒険

(その日、アンドレ・ブルトンは)

 

他9編を収録した短編集。

 

こんな世界から逃げ出してしまいたい?

ようこそ、この本が、あなたの帰る場所です

反理想郷にさよならを
反理想郷にさよならを

 

『反理想郷にさよならを』

著者:秋山真琴

装幀:はるかかなた

発行:雲上回廊

頒布:第二回「文学フリマ大阪」G-13 雲上回廊

日程:2014年9月14日(日)

価格:1000円

判型:A6(文庫本)

頁数:224ページ

部数:100部

【目次】

「Boy meets World's End Girlfriend」

「'Til Death Do Us Part」

「(I can't)Change the world」

「Can't Take My Eyes Off You」

「秘姫宮」

「All imperfect love song」

「ノイエ・エイヴィヒカイト」

「蔓薔薇剣姫の人間射的」

「死の軛を解かれた禽は誰が為に翔ぶか」

「小指の標本」

「その日、アンドレ・ブルトンは」

「かむながらのみちはとわにつづく」

「しげんのみちはとわにつづ」

「渡り鳥の話」

【購入方法】

 文学フリマ等の即売会で直接販売をおこなっております。

 また、下記の書店様で取り扱っていただいております。

架空ストア(吉祥寺)

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 電子書籍版も予定しております。

【内容紹介】

Boy meets World's End Girlfriend

「誰だお前は? そこで何をしている?」

「渡り鳥さ。見てのとおり休んでいるところだ」

「渡り鳥……お前の名前か?」

 女は怪訝そうに目を細めた。

「この地方では使われない言葉なのか。宿を持たず、世を渡る、言ってみれば……そう、旅人のようなものだ」

 旅人のようなもの。渡り鳥。

 そんな言葉を聞いたのは初めてだ。そもそも、旅人を見るのが初めてのことだった。何故なら、

「旅人だって。ばかな、この鍋底市は出ることも入ることもできない、自然の要塞だぞ。お前! どこから来た!」

「愚問だなあ」

 女はくすりと笑った。

「無論。世界の外から」

'Til Death Do Us Part

 彼が目を覚ましません。

 これで三日目です。もしかしたら私はこの先の一生を、眠ったままの彼と過ごさないといけないのでしょうか。穏やかな表情で目を瞑った彼の頬に触れてみます。かさり。乾いた紙に触れたときの音がしました。その感触は、ずっと昔、高校の図書館で見つけた古い本のそれにとても似ています。もしかして、と私は思います。彼は本になってしまったのでしょうか。

 私は探します。どこかに彼という本の扉があるはずです。それを捲れば私は、彼を最初から読むことが出来るはずです。まだ私と彼が知り合うより前、それどころか彼が生まれた瞬間からのことを知ることが出来るのです。私は感動に身を震わせました。子どもの頃の彼がどんな子であったか、彼がどのように大人への階段を登り始めたのか、そしていかなる軌跡を経て、私と巡り逢うことになったのか。私はずっとそれを知りたいと思っていたのです。

(I can't)Change the world

 唐突に、私のなかに欲情が芽生えた。

 目の前の老婆に対して? 莫迦な。ぐいとこめかみを抑える。しかし、私の理性に反し、下半身はなにかを告げるように、なにかを訴えるように、雄叫びを上げんとしていた。

 老婆と視線が交錯する。

 瞳が濡れていた。

 布団の下の、老婆の肢体が何故か猛烈に気になる。あれだけ布団が平たいのだ、さぞかし貧相な、貧弱な肉体をしているに違いない。

 埃を振り払い、老婆の全身を覆っている布団を、そっと持ち上げる。そして、布団に隠されていた老婆の裸を見たとき、口から「ひぃ」と、か細い悲鳴が零れ落ちた。

 猫が死んだ。

 夜明けの散歩についてきた彼女は、何かに誘われるように、ふわりと脇道に逸れていった。束の間、僕の視界から消えた彼女は、次の瞬間、鋭い声をあげた。

「お兄様」

 野良犬にでも襲われているのだろうか、救けを求める彼女を求め、明け方の靄を振り払うも、彼女の姿はない。

「お兄様、早く、お兄様、救けて、嗚呼」

 個々の単語を短く区切るように発音するのは、知的な彼女の数少ない癖だった。

 十三丁目の裏路地に入り、一家心中した辰神さんの放置された屋敷の庭を抜け、彼女の声を追いかける。そうして、どこにも続いていない、三方を高い壁に囲まれた袋小路で、僕はすっかり変わり果ててしまった彼女の哀れな亡骸を発見した。

 可愛そうに心臓を喰い千切られたのか、腹から胸にかけて、肉が根こそぎ奪い取られており、見開かれた眼球はガラス球のようにくすみ、艶やかに輝いていた黒い毛並みも血で汚れてしまっていた。

秘姫宮

 風が鳴っている。轟々と。東の果てにあるという山、南の果てにあるという山、西の果てにあるという山、北の果てにあるという山。菱形世界の末端にありて、雲と空からなる天が大地に落ちて来ぬよう支えているという伝説の山々から、風が世界の中心、中央へと向けて吹き付ける。風は絶海を越え、荒野を越え、中央へと至る。世界の中心には、小高い丘がある。丘には何もない。神殿や祠などが建てられている訳でもなければ、途方も知れない樹齢を数える大木がある訳でもない。ただ、風が吹きぬける。ただの丘。それにも関わらず、その丘の周辺に村落を構える民は、その丘を侵略しなかった。その丘に自らの住居を建てることも、家畜を放牧することもなかった。それどころか、彼らは時に彼らの制定した時間の中で何時間か毎に、その丘に向けて平伏する。まるで力なき存在が世界の創造主たる神を崇め奉るように。それは異様な光景であると同時に、人々の力強く生きる様が輝いているかのようであった。四方から到来した風が平伏す民の頭上を駆け巡る。風には精霊が宿っていた。

All imperfect love song

「そろそろ終わりにした方がよろしいのではないですか」

 口髭を生やしたマスターにそう言われ、おれはようやく視線をカウンターに並んだ七つのピンから逸らすことができた。

 頭が痛かった。

 そもそもマティーニはこのようにして飲むものではないのだ。味なんていうものも三杯目の頃から分からなくなり、オリーブの味だって五杯目には失われていた。

 どうしてこんな飲み方をしたのだろうか。

 差し出された水を飲みながら、おれは記憶を反芻する。

 そうだ。ああ、そうだ。

 弔い酒のつもりだったのだ。結婚しようと約束していた、麻子に対する。

 おれは彼女の面影を思いだし、また泣きそうになってしまう。彼女は今のおれの味覚なんてものよりも、より絶対的に、恒久的に失われてしまったのだ。もう二度と、よみがえらない。夜が明け、雨が上がり、冬が終わろうとも、おれは二度と彼女をこの手で抱きしめることができないのだ。永遠に。

ノイエ・エイヴィヒカイト

 二週間前にせかいは滅びた。

 より正確に言うと、生きとし生けるものは、ある夜を境にして消えてしまったのだ。夏の暑い夜だった。眠りに落ちる直前まで蝉が鳴いていた記憶があるのだけれど、後に残ったのは昨日まで生きていたひとやものたちの痕跡と、すでに死んでいたひとやものたちだけだ。

 彼らは、みな、海に還ったのだとぼくは考えた。望んで飛びこんだものもいただろうし、誘われて飛びこんだものもいただろうし、期せずして飛びこむことになってしまったものもいただろうし、騙されて飛びこむことになったものもいるかもしれない。けれど、結果として、ぼくを除くすべてのものが海に還ったのだ。だから、この地上には、ぼくを除いて、もう誰も残っていないのだ。

蔓薔薇剣姫の人間射的

 人間の頭部が撃ち抜かれて、砕け散る音は、西瓜が鉄製のバットで真っ二つにされる音に似ている。異なるのは破壊されて、もはや用を為さなくなった器から飛び散るものだろう。人間の頭部から出てくるのが脳漿と血液であるのに対し、西瓜から出てくるのは赤い実と黒い種だ。ころころと転がってきた眼球が、ぼくの足元で立ち止まる。潰れて濁った眼球はぐるりるりと回転すると、ぼくを鈍く睨みつける。眼球は念を飛ばしてきた。ぼくはそれを受信する。俺には夢があった。竜を殺し、魔女を娶り、五千の子どもを残すという夢があった。俺は北の彼方の姫君を怨む。頼む、俺の仇を取ってくれ。それだけを告げて息絶えた眼球の懇願を、ぼくは無視する。遥か北の地におわす姫君すなわち蔓薔薇剣姫はおおよそ無敵の存在だ。幻喪の領主を名乗る彼女は、ありとあらゆる存在する何かを消し去ることができて、彼女に対抗できる者がこの世にいるとすれば、それはありとあらゆる存在しない何かを生み出すことのできる幻創の領主に他ならないだろう。

死の軛を解かれた禽は誰が為に翔ぶか

 浮遊感。

 真下から突かれて、身体がふわりと持ち上げられるのが分かる。

 どこが空で、どこが地面かも分からない。ただ、荒々しい猛りに突かれる度に、きっとそちらが重力のある方なのだろうなと思う。

 激しい動きは、本来は、暴力でしかなく、おおよそ痛みしか覚えないはずなのに、私は安心感に包まれていた。

 快感。とは少し違うような気がする。

 好きな男に抱かれたときに感じる、痺れるような甘さはない。

 どちらかと言うと、そういうのを通りすぎて、もう何だかよく分からない、わやくちゃな感じに近い。でも、だからと言って、どこまで行ってしまうのか、戻ってこられるのか。そういった不安や脅えはない。私を私のまま認めてくれる、そして委ねることを許してくれる、そういう大らかさが私を優しく包み込んでいた。だから私は、私の中に入ってくるものを阻むことも否むこともせず、逆に、積極的に受け入れたり引き込んだりすることもなく、ただ、好きなようにさせていた。

小指の標本

 左手の小指が荒れている。

 荒れ始めたのはいつからだろうか。覚えていない。

 気がついたら第二関節から先が荒れており、保湿クリームやハンドクリームで応急手当を試みたけれど、何の効果もなかった。手荒れの範囲はじょじょに広がってゆき、今では掌に侵食しつつある。既に薬指の根本まで、手荒れは広がっている。

 それがほんとうに手荒れであるのかどうかは分からない。クリームを塗らずに放置しておくと、表面が乾ききって白くなり、こするとカサカサと音を立てながら零れ落ちてゆく。その状態でさらに放っておくと、やがて血が滲みだすほどだ。

 クリームをこまめに塗り、手袋をして乾燥を防いでも効果は少ない。火傷で引き攣れたようになった肌は、明らかに他の部位と比較して変色しているし、皺も不自然に多い。指の腹は、もはや別人のようになっており、きっと指紋も採取できないだろう。

その日、アンドレ・ブルトンは

 底冷えのする朝だった。冷気の立ち昇る石畳を、編上靴で踏み潰しながら通りを歩いていると、木の葉を纏ったつむじ風が、読み捨てられた新聞紙を運んできた。あなたに読まれたい。かしずくように足元に舞い降りたのは、今日の朝刊だった。一九二三年初冬。アドルフ・ヒトラーがミュンヘンでクーデターを未遂し、ネパールでは独立の気運が高まっている。ブルトンは、此処が架空のパリであることを知っている。だから先日、喧嘩別れしたダダイズムの創始者、サミ・ローゼンストックが後にトリスタン・ツァラと改名し、その後、和解することを知っているし、自分が翌年、自動記述による物語集『溶ける魚』の序文として著した『シュルレアリスム宣言』で以って、シュルレアリスムの時代が幕開けることも事実として知っている。未来の出来事を既にして知っているという体験は、実際には不愉快以外の何物でもなかった。レールから逸れるように、道を踏み外し、異なる選択を採ったとしても、その度に、記憶は改竄され、自分が、そのようにして自分自身をも欺いた結果を新たに記憶するに過ぎない。ブルトンは情け容赦なく石畳にて救いの手を待つ朝刊を踏み躙った。

かむながらのみちはとわにつづく

 ざぶんざぶん。漆黒の帳に覆われた舟を、押し寄せる波の音が被さってくる。一定のリズムと一定のパターン。太古から失われることなく、途絶えることなく綿々と続いている重厚な音楽に身を任せていると、闇沼は睡魔に襲われそうになる。穏やかな、母の胎内にいた過去を思い出す。否、それは回想よりも追憶に近しい。その記憶は理性では回覧することのできないほど深奥に沈められている。ゆえに、この穏やかさは、恐らく産まれる前に自分を保護していたものに等しいだろうという、想像だ。闇沼は睡気を払拭するように大きくあくびする。ふと、水平線の彼方に揺れる緋を見つけた。地平線に沿って等間隔に並ぶ緋は、やがてその輪郭を明瞭にしていった。炎だ。舟に対岸の存在を知らせる松明が、島民たちの手によって立てられている。視線をうえに向ければ伏せたお椀のような島影が見える。島の頂上には白木で造られた鳥居があるはずだ。

しげんのみちはとわにつづく

 しげんのみちは、かがみの地の、ほぼ、ちゅうおうにある、ちょうろうの家の、なやの中から、ふみいることができる。と言われている。とおいむかしから、語りつがれてきた。ふだんは、おおきなふたで、しっかりと、閉じられているけれど、一度、ふたを取ると、ごうごうと、耳をつんざく音が、なやをうめつくし、ちょうろうの家をふるえあがらせて、村を、ぐらぐらとゆらし、かがみの地ぜんたいが、りゅうきするかのような、さっかくに、おちいるほどの音がなりひびく。それはそれはおそろしく、生きていることをこうかいするような音でもあるという。ここに、ひとりの男がいる。あさぐろいはだを持つ、その名も、黒史という男だ。黒史は、かがみの地をつぐ男子として、十五になった夜に、しげんのみちを、たどることになった。それが、この地のならわし。あらしの夜、黒史は、かがみのちょうろうに、ふかぶかとおじぎをする。きめられたかいすうだけ頭をさげ、きめられたかいすうだけこうじょうをのべる。それから、ちょうろうの家を出ると、つよい雨にうたれずぶぬれになりながら、なやへと向かい、さびのういたふたを、えいやと取るや否や、

渡り鳥の話

 神は演算なんてしていない。運命論者が信奉する年代記には、なにも記されていない。未来は場当たり的に、至るところで勝手気ままに生成されている。では、なにもかもがランダムに動いているかというと、そうではない。振り返ったときに、指向性があったような気がするのは、物事に込められた因子の多寡に原因している。因子、またの名を可能性。いわゆる第六元素。それは選択肢の幅のことであり、多ければ多いだけ、採れる選択肢が多いことを意味する。植物の種子は、大樹に育ちうるという可能性から、そもそも芽が出ないという可能性まで秘めており、それだけの因子を内に含んでいる。種子は因子を消費して、天候を操作して、日光を浴び、人間を操作し、自らに水を与えるように仕向ける。因子が枯渇したとき、植物の未来は確定し、たとえば枯死といった結果に収束する。人間も同様だ。生まれ落ちた瞬間は、溢れかえるほどの因子を持っているけれど、それを消費することで成長し、大人になり、自らの因子を子に託し、老いて、死んでゆく。